第51回卒業式
学校長式辞
震災から一年が経ちました。自然界の営みはある意味冷酷です。一瞬にして一万五千人の命を奪うかと思えば、こうして何事も無かったかのようにまた春という季節を運んできます。
命そして絆の大切さを改めて感じながら、
石尾中学校第五十一回『卒業式』を本日、このように迎えられましたことを皆様とともに謹んでお喜び申し上げます。
また、本日は和泉市教育委員会の森井様、PTA会長の西川様をはじめ、ご来賓の皆様、並びに保護者の方々には公私ご多用のところ、本式にご臨席を賜り、卒業生の晴れの舞台に、花を添えていただきました。
心より厚くお礼申し上げます。ありがとうございます。
さて、二〇九名の卒業生の皆さん、卒業おめでとう。
「とにかく、仲がいいんですよ」と、口癖のように言っていた学年主任の森本先生。もちろんいくつかのトラブルはありました。学校に来たくても来れない、教室に入りたくても入れない仲間もいました。でも、この学年集団にはそんな友へ声かけをする、いつでもみんなで迎え入れようとする優しさがありました。それを証明するかのように、修学旅行、体育大会、文化祭という大きな学校行事を全員の力で見事にやりとげました。そして、そのすべてには友を仲間を大切にする空気が流れていたように思います。
皆さんが生まれた平成八年は、アメリカでアトランタオリンピックが開催されました。女子マラソンで銅メダルを獲得した有森裕子選手の言葉「自分で自分をほめたい」が一躍有名になった年でもあります。今日は胸を張って自分で自分をほめてあげてください。
石尾中学校は今年度創立五〇周年を迎えました。
舞台の上にあるこの新しい校旗は、今日初めて君たち卒業生を送り出すことになります。そして、昨年十二月に発刊された記念誌には「夢を追いかけ」というタイトルを、私のわがままでつけさせていただきました。
「夢を追いかけ」
私がこの石尾中学校で若き頃、子どもたちから教えられた言葉です。
夢を追いかける子どもは美しい。夢を追いかける子どもは本当にたくましい。教師という仕事は子どもに夢をもたせることだとも思いました。
卒業後、いろいろな人との出会い、さまざまな経験を通して、ぜひ皆さんには、自分の夢や夢中になれるものを見つけてほしいと願っています。
突然話が変わって恐縮です。
徳川家康は江戸幕府を開いた将軍です。
その家康も子どもの頃は各地を転々とし、人質になることもありました。
今川義元という人の人質になったとき、義元は家来に次のように命令しました。
「この家康にむごい教育をしてやれ」
家来はたずねました。
「むごい教育とはどんなことをすればいいのですか。」
義元は次のように言いました。
「朝から晩までうまいものを食べさせろ。冬は寒くないように暖かくしてやり、夏は暑くないように涼しくして、それはそれは大事にしてやれ。」
なぜこれがむごい教育なのでしょうか。
義元は最後に次のように言いました。
「そうすれば大抵のやつはだめな人間になる。」
人は厳しい環境の中で揉まれてこそ、たくましく成長し、一方では本当のやさしさをもった広い心が身につきます。
皆さんのこれからの長い人生、たくさんの困難が待ち受けています。どんなことにも逃げず、真正面からぶつかっていってください。まず「やってみましょう」そして、うまくいかなくても「耐えましょう」そうすれば、必ず「乗り越え克服する」ときがきます。
「やる」「耐えよ」「克服せよ」
学校通信最終章の言葉を最後にもう一度皆さんに贈りたいと思います。
結びになりましたが、保護者の皆さま、お子様のご卒業、誠におめでとうございます。
本日このように、子どもたちが立派に卒業できますのは、保護者の皆様方がいつも温かい目で見守ってきてくださったお陰にほかなりません。
十五年間の子育て、決して平坦な道のりばかりではなかったことでしょう。これからも、子どもたちは思い悩みながら大人に近づいていきます。
どうか、今後とも引き続いて、子どもたちの心の支えになっていただきたいと思います。
いたらぬことも多々あったことと思います。
石尾中学校への三年間にわたるご支援・ご協力、本当にありがとうございました。
それでは、卒業生のみなさん
この石尾中学校での数々の思い出を胸に、夢に向かって大きく羽ばたいていってください。
皆さんの未来が、素晴らしいものになることを心からお祈りしまして、私の式辞とします。
二〇一二年(平成二十四年)三月十三日
和泉市立石尾中学校 校長 森 俊二